旅と時々、アファメーション

旅と時々、アファメーション

チキンだけど、冒険好き。

深夜の名もなき呟き

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Twitterをはじめて2ヶ月。

 

今のところ、かろうじて続いている。

 

勝手にSNSの三大巨頭を

 

Facebook

Instagram

Twitter

 

とすると...

 

メジャーどころは2つまでにする(というかそれが限界?)という自ら設けたルールを守るべく、一番の古株のFacebookを断捨離することにした。

 

Twitterをはじめた最初の頃、リツイートって何?というレベルで今や小学生でも知っていそうなツールの使い方もよく分かっていなかった。加えて、思いの外、感じとってしまうSNS特有のノイズにもうやめてしまおうか、と何度も思った。

 

ちょっと油断しているとSNSに投下している時間が魔のように増えていくことに罪悪感を抱き、ストレスを感じている自分に嫌気が差していた。

 

それもそうで、広告も含めるとこちらの意図とは裏腹に、タイムラインには分単位で次から次へと夥しい量のツイートが流れてくる。

 

少し...いや、かなり苦しめられた。

 

気持ち的には、もう、朝からお腹いっぱいです...。という気分だった。

 

何のためにはじめたんだろう。

 

Twitterの世界と自分の中にすっかり温度差があることに気づいた。

 

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数日考えて、

 

好きなことで100%を満たすのはむずかしい、、、ならばと、なるべく嫌なことを避けていく...というやり方を取ることにした。

 

具体的にいうと自分が必要な情報だけを見る、という方法で今は何とか続けている。

 

わたしがフォローする人には、2パターンあって

 

・前者は、全部が全部共感できないけど、たまーに逆転満塁ホームラン級にいい事を言ってくれるので一応フォローしている人

 

・後者は、自分の言葉を持っていて、まるでわたしの心を見透かすかのような欲しい情報をとっておきの言葉とともに添えられる人、もしくは(もし言語化する能力があったら)さらっとそんなこと言ってみたいわ、って内容を惜しげもなく自分の言葉で語ってくれる人

 

だということに気づいた。

 

どっちが大事かって言われると、そんなの決まってて

 

もちろん、後者のツイートに注目したいに決まってる。

 

何よりも自分の言葉を持っている人にとてもとても惹かれるのだ。

 

何となくインフルエンサーが過去に語っていた言い回しや表現の流用はすぐに気がつくし、それを堂々と自分の言葉のように語っている人を見かけると恥ずかしくないんだろうか?と問いたくなる。

 

本音を隠して、ポジティブで根明なツイートばかりする人も逆に疲れる。

 

そして、最後に相互フォローを希望する人の価値観はちょっと意味が分からない。

(勝手にお願いします、という感じだ笑)

 

だから、アイコンを頼りにわたしが見たい情報だけ、ただそれだけを出来る限り取りこぼさないように拾うことにした。

 

いつまで続くことやら。

 

何事も極めすぎるのはしんどいし、ちょうどいい塩梅のところをうまく見つけてお付き合いしたい。

 

最後に、これほどまでに考え悩みつつも続けている理由には、いくつかあって

誰得、?という言葉を一旦無視して書き上げると、

 

・自戒のために「独学ではじめた勉強の成長記録」(一日の終わりに書く日記のようなイメージ)を綴ること

・他者の視点や工夫から得られる気づきを得ること

 

にある。

 

Twitterは今のところ、娯楽要素はほぼ皆無で学習用ツールとしての役割しか担っていない。

 

そして、わたしの場合Twitterをやめられないいちばんの理由は、学習のモチベーションで

 

”他者の努力を見て自らを引き上げること”、にあるからだ。

 

もうこれしかない、といっても過言ではない。

 

この気持ちがある間は続けているのかな、と思う。

 

ただ、いろいろ言いたい、書きたい人にとっては

 

140文字に想いをのせきることなど到底不可能で

 

大抵、いつも字余り...になる。笑

 

それは、慣れと工夫とセンスの問題なのだろうが、やっぱりちょっと足りない。

 

(いや、全然足りてないよ!)

 

140文字に収める工夫をしつつも、端折りすぎてかえって意図がきちんと伝わらない、というのはもっと虚しい。

 

...という訳で、今夜はブログにお引っ越ししてきた。

 

いいね!をたくさん稼ぎたい訳でもないし、フォロワーさんがとにかくたくさん欲しい訳でもないから、それよりはわたしの言葉や気持ちがご縁ある人のところへ届く方が何倍も嬉しい。

 

 

ブログは瞑想。

 

 

誰かがそんな表現をしていて書きながら考えたのだけれど、気持ちの整理という点でも自分の想いを書き綴ることで得られる余剰効果は意外に大きいのかもしれない。

 

このわたしの雑記ブログ程度でも十分にその効果を感じられる。

 

人との交流が感じられなくなったら、人もウサギのように寂しくて死んでしまう。

 

高3の時の現代文に出てきた「ウサギ」の作中に出てきた一文を今でも覚えている。

(かわいいな、ウサギ。)

 

というか、ふと、それはあながち事実なのかもしれない、と思ってしまった。

 

人との交流を断って誰とも会いもせず、話をする機会もなくなってしまったら、本当に心がおかしくなってしまう、だろうな。

 

行き場のない思いややりきれない思いはどこをどう彷徨うんだろう。

 

自ら、ひとりの時間を選択して過ごすのと、抗えない力で始まってしまったそれがいつ終わるとも知れぬ状態にあるというのには雲泥の差があって、その状況が続いてしまうのはかなり厳しいことなのだと実感する。

 

引きこもって自己投資に使う時間も悪くないけど、いくら外出自粛だからって曇天の空の下、家の中にじっとしていると、たまーにどうしても気が鬱々となってしまう時がある。

 

仕方ないよね、と思いつつも。

 

だから、SNSをうまく使って他者とのつながりをリアルに感じられるような瞬間が必要なのだろうな。

 

もちろん、SNSに限らずオンラインコミュニティによる勉強会やウェビナーによるセミナー、Zoom飲み…などオンラインで出来ること何でもそうだ。

 

みんながいろんな我慢を強いられている今こそ、工夫してなるだけ楽しいことに目を向けて過ごしていたい。

 

良い事があってこその笑顔じゃなくて、

笑顔でいりゃ 良い事あると思えたら、

それが良い事の 序章です

 

というMr.Childrenの歌詞が大好きだ。

 

その人が取る態度や発する言葉から、本当に人間性が浮き彫りになって生き方を問われるなと日に何度も感じてしまう。

 

工夫次第で人間はどんな風にも生きれるということを忘れたくないな、と思う。

 

というか、そのセンサーが壊れてしまったらもう終わりだ。

 

大切なことは、もっとシンプルなところにある気がする。

 

だから、限りある時間を大切にしていこう。

 

そして、何よりもこれからの世界の中により良く変わっていく部分に目を向けていたい。

 

もう、まもなく2時を迎える(悲鳴)

 

いい加減に終えないと、明日の朝起きれなくなる。

 

一旦、乗ってくるとやめどきが分からないのがネックだ。

 

という訳で、おやすみなさい。

 

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