物書きの神様が降りるとき...
夢を見た。
今でも、たまに思い出すことがあるけど、
小学校1、2年の頃、放課後にわたしと同じクラスの男の子しかいない教室で、その日の作文の授業時間内に書き終わらなかった課題をやられていたことを。
居残りだった。
小学校低学年のわたしが、とにかく苦手で嫌いなもののひとつに、算数の文章題と逆上がりと同じくらいに匹敵するもの、それが作文だった。
どうにも、書けない。
最初の一文を書くのにものすごーーーーーーく時間がかかるし、それを書き終えたとて、あとに続く文章が自分の心のどこを探しても見つからないのだ。
たとえ、
「ゆっくりでいいから、自分が書きたいことを書いてごらん」と
どんなに辛抱強い人が言ってくれていたとしても、控えめに言って、気が遠くなるほど、書けない生徒だったと思う。
困った。
同級生の優秀な子たちは、早々に書き上げてしまったそれを提出して、校庭で楽しそうにドッジボールをしている。
わたしも、早く遊びたい。
これは、決して良いものを書こうとか、先生が気に入りそうな文章を残そう、とかそういう思いは皆無の上で、書けなかった...。
通知表に作文のみのカテゴリーがあったとすれば、
たいへんよくできる(4)
よくできる(3)
できる(2)
がんばろう(1)...
つまり、言葉を選ばずにいうと1...どころか整数なんてつけられないし、0はおろかマイナス評価だったかもしれない。
夏休みの宿題の自由図書の作文も、憂鬱になるほど嫌だった。
何とか、楽しみを見出そうと表紙がかわいい絵本をジャケ買いしてきて、いざ書こう!と思ったら、こんなものは題材にならない、とケチをつけられたこともある。
だって... 表紙のデザインがかわいかったから...
聞き入れてもらえなかった。
活字を見せられることも本を読むのも大嫌いだった。
叔母が教職についていて、帰省時に会いに来る度、当時のわたしの年齢に応じた児童推薦図書を贈り続けてくれていた。
良いとは分かっていても、「あ、ありがとう...」と言って、次会いに来たときに感想を聞かれても言いようにテキトーに読み流して、すぐ枕にして寝ていた。
図書券がいいな、それで漫画を買いたかった。
なんてリテラシーの低い、やる気のない小学生だろう。
そして、転機は訪れる。
.
.
.
と正直、書きたい。
でも、これと言った特効薬を得ぬまま時は過ぎ、わたしは小学校を卒業し、次第に"書かされる"ことに慣れていったのかもしれない。
楽しくなかったと思うんだけど。
そこには魂なんて宿ってなかったと思う。
.
.
.
わたしが高校生になった時、1冊の本に出会った。
東野圭吾の ”手紙“ である。
とても有名な本なので読んだことがある人も多いんじゃないかな。
簡潔に内容を説明すると、殺人犯になってしまった兄を持つ、弟の苦悩と半生を描く、推理小説の巨匠が書いたヒューマンブックスや生き方を問う本にカテゴライズされるような本。
それで何を思ったか、当時のわたしは、有志で募集されたにもかかわらず、"あれほど"嫌いだった読書感想文を夏休みに書いてみよう、と思って応募した。
正確にいうと、書こうと思った時点では、本屋さんで概要を読んだ程度であまりよくは分かっていなかった。
どうしてだろう?
直感的に、これは応募しておかなくては、と呼ばれた感覚があった。
そして、光栄なことにその年の京都府のコンクールに選んでもらうことになった。
人が変わった、と思った。
内容の良し悪しは別として、その作文に魂だけは確かに宿っていたと思う。
読むことと、書くことの両方の楽しさを教えてくれた人、それが東野圭吾だった。
わたしのモットーである、好きじゃないとできない、本気になれない、という所以はここからも来ている。
小学校の頃の担任の先生は俄かに信じてはくれないだろう。
それを皮切りに、
今では100冊を優に上回る彼の著書のほとんどを高校生の間に読んでしまった。
ある時は、往復の通学時間や寝る前の隙間時間、友達と遊ぶ時間や勉強している時間以外はほとんど没頭して読んでいたと思う。
当時からの親友に彼の著書を熱い思いで語って、薦めて困らせてしまったこともあったっけ?笑
Yちゃん、ごめん〜〜〜。
校内図書館に当時のわたしの貸借カードが残っているとすれば(多分焼却されていると思うけど...)そこには、東野圭吾の名前一択だったのでは?と思えるくらい、狂うように彼の作品ばかり読んでいたんじゃないかな。
正直、この人と結婚したい、とも思った。笑
狂ってる。
覚えている限り、当時は今のように誰もが知っている爆売れ作家というほど、にはなっていなくて、数年後にそんな風になった時は正直びっくりした。
彼の書く文章には、ただの推理小説を超えるものが確かに存在している。
それを読者を惹きつける魅力と一言にしてしまえば、それまでだが、そこに存在するただならぬ表現力に魅了され続けてきた。
ユーモアとセンスと賢さがいっぱい詰まった本、である。
加えて人の心に触れるストーリーを書ける作家というのが、わたしが彼に対する最高のリスペクトだ。
彼の小説を通して、知らない世界をたくさん教えてもらった気がする。
ほんの千円ちょっとの値段でひとりの作家を通して、未だ見ぬ世界を擬似体験できる。
それが起爆剤となって、今度は自分でやってみよう、と思うこともある。
これがある限り、飽きるはずがないんだ。
あ〜、こんなことを書いているとものすごく本が読みたくなってきた。
でも、今は他に向き合う対象があって、浮気をしている場合ではないので、封印しているのだが。
ここ数年の間に、ブックオフやメルカリを使って持っていた本の大半を断捨離してしまった。
読んだら、忘れている内容もたくさんあるだろうけど、一部の本に関してはもうお別れする時だなと悟った。
というか、次に必要なときが来るまで、この世のどこかに預かってもらおう、という気持ちで快くお嫁に出した。
人は変われる。
わたしは、これまで出会えた数々の本にとても感謝している。
そして、まだまだ、知らない世界がある。
今月から学習のためにYouTubeプレミアムに課金してしまうほど動画に頼って、今は静的なものへ割く時間や心の余裕が薄れてしまっているのは事実だが、ごくたまに本を読んだり、活字に触れたりするのはとてもよい機会を自身にもたらす。
本当の良書は、人気の有無にかかわらず、この世の中にまだまだたくさんあって、わたしの知らない世界があると思うとワクワクする。
先日も、大好きな作家のひとりの島本理生の本を図書館で借りてきて読んだ。
それをSNSに投稿したら、「わたしも一昨日連れて帰ってきたところです」とフォロワーさんのひとりが返してくれた。
こんな風につながれるからおもしろい。
寝る前に全く関係ないジャンルの本を読んでみるというのも、悪くないなと思った。
多くの人が語るように、良質なアウトプットは良質なインプットなくしては語れないのだ。
それが夜型生活の誘いであったとしても、少しも後悔はしていない。
余談になるのだが、新卒で就職した出版社で昔一緒に仕事をしたことがある人に
「そう言えば、この間、赤坂で東野圭吾と飲んだよ」と大したことないように言われて、
その時ばかりは、声を大にして首根っこを掴んでしまう勢いで、
「なんで今まで黙ってたの?!」と人目も憚らず問い詰めてしまったことがある。笑
いつかお会いしたい。
東野圭吾にゾッコンだった当時に比べるとそのピークはだいぶ過ぎ去ってしまって、随分落ち着いたけれど、今でもわたしの脳内図書館は彼の語録でいっぱいだ。
決して綺麗とは言えない配列で陳列されているため、
時々、手探りでその引き出しを開けたり閉めたりしている。
これから、どれだけの本に出会えるだろう。
中にはハズレを引くこともあるけど、次に思う存分読める日がきた時には何を読もうかとワクワクしながら、今は全く違う勉強をしている。
おしまい。