良かれ、と思って?
こちらから投げたボールの返事がなかなか返ってこなくて、
自分にとっては、さほどむずかしくないと思えた質問でも、
相手にとっては、熟考に値することなのかもしれない、と気に病んでいたら、
返ってきた答えが、
「なんでもいいです」
だった...
長らく時間があったはずだから、
きっと明快な答えが返ってくるだろう、というのは
こちらが相手に寄せた勝手な期待で
そんな期待は簡単にへし折られてしまうことはザラにある。
(わたしの思い悩んだ時間を返せ。)
なんでもいいです、と言う人に限って、意外とこだわるポイントが多いというか、究極的には何でも良くなかったりする。
もう一度書くが、本当になんでも良くなかったりする。
相手は、”良かれ”と思って
なんでもいい、と口にしているのだろうが、
その良かれ、は実は全然良くははたらいていないんじゃないか?と思わずにはいられなかった。
後からダメ出しやこだわりが募るのなら、
「なんで最初から言ってくれへんねん(激おこ)」という言葉は飲み込んだ、けれど。
それをある時、気の置けない友人に話していたら、
それは、「その人の基準の中で」という枕詞が隠されているよね、と言われてハッとした。
たしかに。
もう、言い得て妙すぎて、すべての辻褄が合致したような感覚に苛まれた。
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当人が、良かれと思ってやっている行為は、
それは本当に相手のためになっているだろうか?
日本人は、とかく周りに合わせがちでハッキリと自分の意見を言う人、は
敬遠されてしまう風潮を感じる時がある。
ご多分に漏れず、わたしもその一人で
日本にいると言葉を飲み込む瞬間は割りに多いし、
一旦ここは様子見で黙っておこう、と策をめぐらしてしまうことだってある。
自らが生きづらい社会をつくり出しているな。
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意見を言える人が”善”、言えない人が”悪”とかいう言葉そのままの意味の二軸の考え方をしたい訳ではない。
意見を言う人が嫌われると思っている人は、
当たり前だけど、鈍感で相手の想いを測れないデリカシーに欠けた、人のことを指しているよね?
わたしも、そんなズレた人はハッキリ言って嫌いだ。
光の速さで付き合うことをやめる。
相手が誰であろうが、誰得やねん、と思う意見を振りかざす人からは一刻も早く離れる。
でも、総合して意見を言う人が嫌いかというとそうではない。
寧ろ、”言い方を心得た、自分の意見を言える人”が、好きだ。
意見を言うこと自体は、わがままではない。
事実として、
相手のためにも、自分のためにも意見を言える人がつくる世界は、
所謂、サファリパークにはならない。
建設的で、平和な世界だ。
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日常の中で、どんな小さな選択にも自分の意志のもと、おこなう。
これは、わたしが日頃、無意識のうちに擦り込み続けている言葉であり、習慣だ。
人間だから、生きていて判断に迷うことが起こり得るのは当然だ。
選択肢が多い中から、1つに絞らないといけない状況もままあるだろう。
今でこそ、即断即決タイプなんて言われたりするけれど、
昔は、
のび太も引くくらいの優柔不断さを携えていたと思う。
こんな過去を持つわたしだから、優柔不断は、訓練で直ると思っている。
具体的に決められない時、
わたしがおこなっているのは、
「どれがいい?」と聞かれれば、
数ある選択肢の中から、
自分は”あれ”と”これ”とで迷っているとある程度具体的に絞って告げることにしている。
10個の選択肢から、瞬時に1個に絞ることはむずかしくとも、
好きな3つ、または5つに絞ることなら、グンっとハードルが下がるはず。
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これはあくまでも仮説だが、どんなに俺様、クレオパトラな性格の持ち主も、
全ての裁量・決定権が自分に与えられていたら、
面白くないと思うのは、わたしだけだろうか?
良い意見は積極的に取り入れたいし、好きな人の意見なら尚更聞きたいとは思わないだろうか?
第三者的な意見が削がれた、
自分だけが正義だと思ってつくり上げた世界なんて
ひとり相撲やん。
何でも肯定して、うんうん、言ってくれるだけの人はおもしろくないと思うんだよね。
無理に、反対意見は言わなくていいと思うけれど、
肯定するなら、するだけの理由を述べられたら、
相手は共感してくれたことにもっと喜んでくれるだろう。
言い方を考えて意見を言えば、相手にも押し付けがましくないし、
無理に自分の意見も飲み込まなくて済む。
妥協点を見つけていく。
ちゃんと言えるんだよ、って段階を踏んで、
下地をこしらえて、
ここから生きづらい日本を変えていきたい。