大阪のおばちゃん
「あんなぁ、ようききやぁ。
男はな、
電化製品と同じでな、
焦って決めたらあかんで。
後から後からええやつが出てくるさかい〜。」
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思わず吹き出した。
昔、通りすがりにたまたま見かけた夕方のワイドショー番組で、取材を受けた大阪の下町のおばちゃんが人生指南をしていた。
うまいこと言い過ぎやで、おばちゃん。
「っで、おかあさんはどうやったんですか?」
と続けて、芸人リポーターがおばちゃんにマイクを向ける。
「うち?見てみぃな。おとうさんの買い物に失敗したわぁ〜〜笑」と一切の悪意なしに旦那さんの肩を叩きながらこぼしていた。
爆笑。
さすがは、大阪のおばちゃん。
最後まで、抜かりないところ、大好きだ。
今よりももう少しだけ若かった頃、
ひとつの恋が終わりを告げた。
何がどうして上が下であっちがこっちで、ともがけども終わったのだ。
それだけが事実だった。
ぜったいなんてなかった。
はじまりがあれば、終わりもあるのだ。
逆も然り。
しかし、当時のわたしは自分を正当化したかったのかもしれない。
強がって自分に嘘をついて得た後悔を綺麗さっぱりぬぐい去りたかったのかもしれない。
真意は分からないが、要するに、心は傷つき葛藤していたのだ。
誰の言葉に傷つき、救われているかなんて分からない。
良かれと思って放った言葉、励ますつもりのセリフが
時に人を傷つけているのかもしれない。
深く考えても相手が面と向かって言ってこない限りは分からないだろうし、この辺りの良し悪しについて、言及するつもりはない。
...が、逆もある。
時として救ってくれる言葉に出合える時というのは不思議と訪れるものだ。
当時のわたしは間違いなくそれが大阪のおばちゃん、だった。
それ以来か、どうか時期は定かではないが、衝撃を受けるほど、いいなと思ったことやセンスのある表現など自分が変わるきっかけや気づきを与えてくれた人との出合いがあった時には必ず「ありがとう」の気持ちを相手(アーティスト)に直接伝えることにしている。
言葉に限らず、アートでもなんでも表現されたクリエイティブの全てに。
相手が見ているかどうかなんて分からないが、自分が言いたいから伝える。
出来る限り、気持ちが新鮮なうちに。
自分のありったけの気持ちを言葉にして伝えるようにしている。
想いや感謝は直接言われてこそ、届く。
便利な時代に生まれたもんだ。
いいな、素敵だな、と思った相手とつながり、それを伝える術は山ほどある。
(もちろん、出来得ることなら原始的にお手紙を書いたり、、直接会いに行けるものなら、行っても…いい…とは思うけど...。まぁ、コロナでこんな状況だしねぇ)
SNSというツールは相手を傷つけるためにあるんじゃない。
誰かに便乗したカタチでしか叩けない批判や愚痴もダサすぎる。
そんな暇してるくらいなら、自分を高める努力をするとか、前向きなことに時間を使えばいいのに、と荒れ狂うソーシャルメディアを見るたびに思う。
感謝の気持ちも言ったつもり、は言ってないのと同じだ。
重くなくていい。
わたしはサラりとかっこいい表現は出来ないけど、「ありがとう」だけはちゃんと言える大人でいたい。
多分、大阪のおばちゃんの目に、わたしのブログが触れることは一生ないと思うけど、、時空を越えて気持ちだけ...。
P.S.
おばちゃん、あの時はほんまにありがとう。
当時のわたしは大いに救われたよ。
また、前を向いて歩けたから。