旅と時々、アファメーション

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チキンだけど、冒険好き。

魔法のスープ

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フォーボー 30,000ドン(日本円換算:135円)

 

その土地の名前を聞くと付随するように思い出す味。

 

二つで一つのセットであることが当然のことのように。

 

このお店のフォーボーもまさにそのひとつで、人を惹きつける魅力に溢れたお店だった。

 

日本で一般的なフォーと言えば、フォーガー。

つまり鶏肉を指すのだろうか?

 

わたしがベトナムにきてはじめて食べたホーチミンのフォーも鶏肉だった。

 

reborn-to-be-free.hatenablog.com

 

...が、ここの売りはフォーボー。

牛肉のフォーであるらしい。

 

フランス統治下の影響でそれまで牛肉を口にすることのなかったベトナム人

 

今では、むしろ牛肉のフォーの方が定着しているのかもしれない。 

 

夕方4時少し早めの夕食を摂るべくオープン後すぐのタイミングでお邪魔した。

 

ホイアンの公道から路地を1本入ったところに家族経営のフォーボー専門店がある。

 

門扉を抜けると屋外に面して4~5人が座れる円卓のテーブルが5~6台。

 

ご主人と奥さんとお手伝いの女性が2人ほど。

 

どちらからともなく人差し指を1本立てて、One?

 

ぺこりと頷いて、どうぞおかけください、と椅子をすすめてくれるのを合図にようやくここに来ることを許されたんだと思った。

 

それというのも、前日に営業時間をよく調べもせずにお昼に来てみると早閉店していたのだ。

 

午前の営業は6時から10時半まで。

午後は4時から8時まで。

つまり、ちょうどお昼の営業をしていないのだ。

 

開店してすぐの店内は先に入店して早食べ終わりかけそうな女性のお客さんとわたしの二人だけだった。

 

パクチーは大丈夫か?と事前に聞いてくれて、もちろん!大好きです、と答えたのだが、苦手なのであれば事前に抜いてくれるらしい。まことに親切だなぁ。

 

まもなくして運ばれてきたフォーボー。

米麺に薄くスライスした牛肉を載せて、そのうえにあつあつのスープをかけてくれて提供してくれた。

 

見た目の美しさも期待以上だった。

 

全てを包括してしまえる清く澄んだ美しいスープ。

 

ようやく出合えた、と思った。

 

そして、お茶請けにまた箸休めに、と一緒に運ばれてきたお漬物たち。

 

わたしが外国人だからと気づかって慣れない英語と身振り手振りで可能な限り、ひと通りの説明しようと試みてくれる姿。来てくれてありがとう、なのか、はたまた聞いてくれてありがとう、なのか、食べてくれてありがとう、なのか。その全てが込められた心からのThank youを何度も連呼してお礼の気持ちを表現してくれる姿。

 

薄くスライスされたマクワウリの甘酸っぱいお漬物、ミント、もやし、ニンニクの甘酢漬け、豆板醤、お醤油に似た少し甘めのシーズニングソースをかけて和える。

 

主役のフォーに負けない役割を果たす脇役だった。

 

ご主人の丁寧で穏やかなもの言いとやさしい笑顔。

 

そのどれもに敬意を表したくなる。

 

加えて、

 

清潔な食卓に日本人の感覚からしても、ものすごく小綺麗にセットされた調味料や薬味。

 

急須に入ったお茶はまだ温かいか、

数種の薬味やハーブは潤沢にあるか、

手拭きのティッシュは足りているかなど、

少なくなっていたりしたら、新しいものに取り替えてくれたりと、

まるでこちらの心の内を先読みするかのような行き届いたおもてなしだ。

 

このお店の心意気が伝わってくる。

 

言葉にすると価値が下がってしまう。

でも当たり前のことが当たり前に執り行われることに対して

ここまで感動するのは、それと対極にあるお店もたくさん存在するからだと思う。

 

1食たったの百数十円。

 

だからか、余計にこの国の物価を思わされた。

 

もう日本に帰ったら、都会では暮らせないかもしれない。

 

本気でそう思わせられた瞬間だった。

 

贅沢って何だろう?

本当の幸せって何だろう?

 

消費も投票のうちだから、どこにお金を落としていきたいか、ちゃんと自分の頭で考えて選択していかなくちゃいけないよ。

 

まだ世の中の仕組みも社会の右も左も何も分かっていなかった二十代前半の頃、ふとそんな言葉を聞いてから、自身の消費に対する考え方を見直すようになった。

 

身近な変化のひとつといえばTVCMの商品を買わなくなったことではないかなと思う。

 

小さいながらも頑張っている個人やそのお店に対して自らすすんでお金を渡すようになった。

 

全てが均一かつ均整の取れた仕上がり。

大量生産大量消費に見る世界はもう終わりにしていいんじゃないかなと思う。

 

日々のどのようにお金を使っていくかは、個々人の消費に見る選挙だなと思う。

 

そんなことを思いながら、ようやく出合えた、フォーの味を噛み締めた。

 

翌日はダナンに移動する日だったが寸暇を惜しんで会いに来た。

 

遅めの朝ごはんか早めの昼にあたる午前中の営業がまもなく終わろうとしているところへ駆け込んだ。

 

寸暇を惜しんででも、もう一度どうしても食べたかったのだ。

 

ご主人がお客さんの足が少し引いたタイミングで追加でお漬物のサービスを持ってきてくれたり、食べ方は憶えていたか?とか気遣ってくれる。

 

もちろん、覚えているよ!

でもきっと忘れたといっても喜んで教えてくれるだろう。

 

あぁ、この人ほんとにやさしいんだなぁ。

 

自らの感情を隠すように、熱々の湯気をまとったスープを飲むことで、涙を堪えた。

 

最初から最後まで記憶に残るご主人のひかえめな笑顔は雄弁な美辞麗句に勝る歓迎のあいさつだった。

 

出会ってくれて本当にありがとう。

 

帰り際、心の中でつぶやくまじないにも似た一言はいつも決まって一緒だ。

 

”また帰ったときには、変わらずここにいてね”

 

心から親しみを込めてそう思った。

 

続く...

 


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