自分になれる時間
小学生の頃に通っていた水泳教室の帰り道には、
いつも決まって最寄りの駅まで迎えに来てくれていたおじいちゃん。
手には、決まってじゃがりこ(サラダ味)を持って改札の向こうに立っていてくれた。
帰りの電車の中で、ポリポリ言わせながら
「今日はカエルになったー。(平泳ぎ)」とか手も口も忙しく成果報告をしながら、
一緒に帰るのが水泳教室の帰りの日課だったように思う。
今日は、「チーズの気分。」とかは決して言わない。
何故なら、いつもサラダと決まっているから。
たくさん泳いだ後は、サラダとチェリオ(100円の自販機)でエネチャージが合言葉だった。
カラダに悪い組み合わせだな…。
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うちの家は、祖父母と向かい同士になっていて、中学、高校生の頃は、毎朝通学の時間帯になるとどんなに寒い日も姿を見せて自転車で通う姿を見送ってくれた。
こちらも普段から暇になると、ここぞとばかりに気に入られるように立ち回っていたから、肩たたきなんかをした暁に、内緒でお小遣いをもらうのも、弟に悪いと思ったことも1ミリもない。
両親が厳しすぎたせいもあって、おじいちゃんだけが味方だと思っていたこともあった。
不思議と怒られた記憶というのがない。
強いて言えば、怪我をしそう、とかそういう危ない瞬間に一瞬注意をされた程度だろうか。
とりあえず、何でも肯定してもらえた環境はぬくぬくと居心地が良かった。
困った時に、あ・うんの呼吸で通じ合える駆け込み寺がなかったら潰れていたかもしれない。
今でこそ、親には親の役割が、祖父母には祖父母の役割があることも分かったような気になっているが、それでもやりたい思いをとことん受け止めてくれる愛情表現の仕方は、難しいことが分からない子どものわたしには十分すぎるくらい有難い存在であった。
わたしの好き、もおじいちゃんには、しっかり伝わっていたように思う。
人生には、時として自分になれる時間を持たせてくれる人との出会いがある。
いろんな人に出会って最終的により一層そういう人たちとの関わりを求めていくというか。
きっとその人たちにも、こちらの好意というのは伝わっていることだろうし、テレパシーのようなものが存在しているのも、あながち迷信ではないのではないかと信じている。
自分が居心地のよい人や距離感、関わり方は自分が一番よく知っているはず。
相手の期待に応えようと本来の自分と違う自分になってみたり、それと違う世界で生きようとするからしんどくなってしまうんだ。
たくさん本を読んだりしたけど、答えはいつも自分の心が知っている。
そう。
どれだけ外側に答えを求めていってもないのです。
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数年前に、あてもなくヴィレヴァンを歩いている時に見つけて買ってやってみました。
やったことある人なら、この面白さや快感を分かってもらえるはず★
My Life~書き込み式・自己カウンセリングBOOK
~254の質問に答えたあと、「本当の自分」が見えてくる。~
さて、今日は、おじいちゃんが好きだったじゃがりこでも食べようか。
おしまい。
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