未知の余白に期待が持てるか
久しぶりに昔の日記を開いた。
そう、日記。
毎日書いている訳でもなく、綺麗に日記専用のノートに綴っている訳でもなく、書かずにはいられなくなった時に、ちょこっとメモ書き程度にその辺に残しておく。
今のわたしの日記との付き合い方はこんな感じだ。
ページをスクロールしていくと、そこにこんなことが書かれていた。
世界中の人と心を通わせることができたら、どんなに素敵だろうー
自分を信じて。
きっと、未来で笑っている自分がいる。
Don't try to be perfect.
No one be perfect.
(完璧を目指さなくてよい、完璧な人間はいない)
Take a deep breath, when you want to get away in your life.
You should push yourself.
(自分の人生から逃げたくなったら、深く息を吸ってごらん。
そして、自分の背中を押すんだ)
I'm sure you're definitely improving!
(わたしは信じてるよ、あなたはぜったいに成長するから)
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少し前の自分はこんなことを想って暮らしていたのか...。
昔の自分が今の自分に語りかけてくれるメッセージは意外と大きい。
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21歳ではじめて海外を旅して以来、世界には自分の知らない世界、人がいることを知って心が打ちのめされるほど感動した。
それまで、一度も日本を出たことがなかった自分が、
もっと広く世界を知ってみたい。
会社の夏休みや有給休暇をフルにつなぎ合わせた短い旅行なんかじゃなくて、海外に住んでみたい、もしくは暮らすように旅してみたい!と心から思える夢もこの時に抱かせてくれた。
が、同時に自分が英語を喋れないことに対する落胆も覚えた。
あれ、意外と何も言えないぞ...?
身振り手振りのジェスチャーにも限界がある。
そうと解れば、
満面の笑みで何を言われてもイエスマンになるとか、
どこへ行くのも英語が話せる誰かと一緒に行く、とか
そんな選択肢しか残されていない。
当時の自分は本当のほんとに全く歯が立たなかった。
悔しいけど、惨敗だった。
自分は義務教育の6年間とこれまでの日々で何を勉強していたんだ。
”嘘やろ?”
信じたくはないけど、信じざるを得ない状況が待っていた。
そのギャップともどかしさに手を焼いた。
でも、集団行動するの苦手だしな...。
いつまでも誰かの背中におんぶに抱っこもごめんだな。
何も喋れない癖に偉そうな、とでも評されそうだが、生意気ながらも心の中に確かに存在した声だった。
「英語話すのなんて簡単やん。」
ゴリゴリの日本語アクセントでも賢明に自己を表現している先人の彼らのことなど馬鹿に出来ないな、と思った。
でも、何か違うんだよな?
自分は最後まで英語特有の綺麗な発音と流れるようなリズムにこだわりたかった。
英語を耳に心地よい音楽として捉える癖がついて以来、
「あぁ、わたしもいつかこんな風に話すんだ!きっとぜったい話してやる!」
志だけは高かった。
でも、いざやってみて、当たり前だけどそれはそれは本当に難しい。
やってみたら分かる話なのだが、日本語でも答えづらい質問に当たった時、それを瞬時にまとめて英語で返すという作業。
「...」
時間にして何秒だろうか...?
えっと、
あっ、
次の瞬間に会話が終わってしまう。
シュン...としてしまう。
綺麗な発音を意識すれば、文法がおろそかになってしまうし、
逆に文法ばかりに目がいくと、「ダッさ...」ともう一人の自分がツッコミを入れたくなるような発音になってしまう。
昔見たYouTubeでハーフのタレントが「英語を第二言語とする人が綺麗な発音で淀みなく話すことは、エヴェレストに登るのと同じくらい難しいことです」と語っていた。
ほんまや。
意外とむずかしいんやな。
でも、だからと言ってやめる理由なんてない。
悔しさと出来なささの狭間で必死に葛藤していた。
「何で思うように喋れへんねやろ?」
高望みしすぎか?
理由はもちろん一つではないし、中には慣れや時間が解決してくれることがあるのも事実だ。
でも、その時点の自分が必死で考えて最も腑に落ちた仮説が、
”分からないんじゃなくて、知らないんだ!”
ということだった。
分からないことがいけないのでも、恥ずかしいことでもなんでもない、ただこの言語・文化圏においての適切な言い回しを知らないだけなんだ、ってことに。
そうと分かれば自己洗脳のはじまり、始まり〜。
何度も壁に打ち当たる度に涙ながらに自分に言い聞かせ続けた。
ネイティブに嫌味を言われても、小馬鹿にされて心が折れかけても、自分はただただ表現の幅が狭いだけなんや、って自己洗脳し続けた。
そもそも反応や前提ひとつとっても、全くと言っていいほど違う。
日本語でこんな喜び方しないよね...?
ちょっと頭がおかしくなったくらい大げさに表現した方がいいんだろうか?
英語から日本語への直訳が難しい所以はここにあるとも言える。
違う国の言葉を話す時、人格やふるまいも変われば、少なからずその国の文化的背景を理解しないといけない、そう言われた意味がようやく分かりつつある今日この頃。
身を持って覚える。
実際に、窮地になってその言葉を使おうとしない限り覚えられないのだ。
単語帳を開いて覚えられる単語が増える度に満足し、安堵していた頃の自分には想像も出来ない事実だった。
カナダに留学していた頃、スーパーで買ったクッキーの箱の中身がもう酷いくらいにボロボロでそもそもクッキーという形を留めておらずコッパ微塵に崩れていたことがあった。
その時の自分は、この事態をなかったことにして飲み込むか、
勇気を出して返金をお願いしに行くか、
正直迷った。
でも、小さなことでも言えたら、また世界が変わるかな。
何でも経験やな。
お金が返ってくる、とかこないとかそんなことは、この時点ではどうでもよかった。
ただこれをチャンスに変わろう、そんな思いだけで、次の日にレシートを握り締めて、覚えたてのフレーズで返金をお願いしに行くことにした。
I bought this box of cookies here yesterday.
Then, when I came back home and opened it, unfortunately the inside of the box had already been crushed.
(昨日ここでクッキーを買って帰宅して開けてみたら、中身が既にボロボロでした)
I'd like a refund, please?
(返金してもらいたいのですが)
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”refund”
という単語は、クッキーボロボロ事件がいつも思い出させてくるからきっと忘れない。
こんな感じで、小さなチャレンジを積み重ねていく過程にこそ、言語を体系的に学ぶという醍醐味が隠されていたりする。
知らないということは、
これから知れる伸び代があるということ、
考え方次第でその余白に期待を持てる、ということ。
やってやろうじゃないか。
こんな風に小さなことにもド真剣に闘っていたら、わたしのような心の弱い人間でもいつしか鋼のメンタルを保てるようになっていくのだろうか...?(余談)
先日、どうやって英語を話せるようになったんですか?と質問される機会があり、
自分のようなひよっこでまだまだ勉強中の身である人間が言えることは限られている...が、
寄り添うことだけは出来ると思い、
僭越ながら、
ひとつだけ言えることとすれば、無意識で「これって英語でなんていうんだろう?」をいつも考えて心の中でブツブツ言ったりしていました。
と答えた。
分からなければ、覚えておくなりして後で辞書を引くなり、グーグル神に頼ったりしている、とも。
そうやって話せるストックや引き出しを少しずつ増やして溜めていくイメージ。
あとは、外国人の友達とかが言った口語表現でいいな、とかかっこいいな!と思うものがあったら、自分も次はすかさず使う!と決めて使っていた。
だんだん、口調似てきたやん?と言わせればこっちのもの。笑
いつも聴いていた洋楽の歌詞の意味が少しずつ頭に入ってきて、さらにまた好きだと思えるようになったのもこの頃から。
そして、ついに留学する前から密かにあたためていたヨーロッパを周遊することを実現する旅を決行した。
周囲の反対を押し切り、当初は3ヶ月の予定で出かけて行ったのだが、途中でアジアも見てみたくなり、急遽予定を延長して住所不特定者として居座った。
とりあえず、楽しそうに旅をしているということだけは確か、ということが伝わったらしく、加えてFacebookで現在地の更新だけは怠らなかったことが功を奏してか、出発前は反対していた両親も最終的にはもう何を言ってもきかない娘(こ)やからね笑、と言って放っておくことにしてくれた。
何より、自分のペースで楽しく学ぶことがいちばん、とあらためて教えてくれた4ヶ月のバックパッカーの旅だった。
本当に感謝している。
そして、世界中に友達が出来たこと。
過去に抱いた夢が少しずつ叶っていっているよ、と昔の自分に伝えたい。
自分の言葉で表現したいことを伝えればいい。
それが本当に繋がりたい人とつながれた時に心地よいリズムを生む。
英語に限らず、日本語もイタリア語もどんな国の言葉でも。
自分はまだまだ道半ばであるが、過去の自分がなりたかった自分に少しずつではあるが近づいている感覚がある。
トライアンドエラーを繰り返し、諦めずにやり続けていれば、見えてくる景色がある。
次の夢は、自らがもっともっと成長して彼らとまた再会すること。
その時に、またひとつでもふたつでも成長した自分が自らの言葉で会えなかった時間に溜めた想いやお互いに大事にしている価値観を共有することを楽しみに、
馬鹿みたいに笑って夢を語り合ったりするために、
目下、出来ることを積み重ねていく。