原点
「悔しかったらやってみろ」
「行動で示せ」
「結果を出してからものを言え」
全部、父の教えだ。
全くと言っていいほど、やさしくない。
今から思えば、毎回何かしようとする度に
本気度を測られていた、ということなのだろうか。
褒めて伸ばす、とは対極の世界に生まれたと思った。
子どもながら何度も突き放された、と感じる瞬間があった。
薄く脆いプレパラートのような心は、その度にひどく傷つき目には涙を浮かべていた。
反骨心が芽生えた、と言えばかっこいいが、多分認めてほしくてたまらなかったんだと思う。
「かほちゃんのパパはきっとやさしい人なんやろうね〜〜」
「どうせ、お嬢育ちなんでしょ?笑」
そう言われるたびに、
見たこともないのに何が分かんねん、
勝手なものさしで測ってくるな。
心の中で反発した。
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コロナ騒動で外出自粛、在宅勤務の影響で物理的な時間が増えたことも手伝ってスキルアップに励む人が一気に増えたな、と感じる。
一種のトレンドかのように扱われているように感じる瞬間もある。
ネットの質問や実際に人が質問しているのを耳にするたびに、違和感を覚えることも増えた。
”今年で○○歳になるんですけど、まだ間に合いますか?”
”飽き性で続かない性格なんですが、こんな自分にも出来ますか?”
”パソコン音痴なんですけど、大丈夫ですか?”
結論、目の前の相手は答えを知らない。
多くの質問者たちはきっとこう言ってほしいんだろう。
そうして、今から自分がやるかもしれない行動を肯定してほしいんだろう。
「大丈夫です!まだ間に合います!」
→なら、やるの?
「いや、あなたには無理ですよ」
「多分、続かないでしょう」
→そう言われたら、やめるんだろうか...?
誰に聞いてるの?
質問するなら、自分にすればいいのに、と思う。
具体的なアドヴァイスや数値的な解を聞くならまだしも、
そんなフワッとしたことを他人に聞いてる時点で本気度低いな、と思えてしまう。
自分が取り組むに値するかの判断、決断はぜったい人に委ねてはいけない。
人の意見や常識なんてカンタンに変わるんだから。
お金が絡むことならなおさらだ。
目の前の相手は、あの手この手であなたを操作するだろう。
完璧な状況なんてきっと訪れないだろうし、
みんな多かれ少なかれハンディは持っているはず。
上手くいっている人はそれとの付き合い方うまいのかな、と思う。
自分のどの面を切り取って見せるかのうまさとも共通しているな、と思える。
例えば、飽き性という性格。
それは、クリエイティブであること、と教えてくれる人がいた。
よく飽き性はダメな人だと言われるけど、飽きるから進化する。飽きる気持ちや変化しないことへの危機感がいつもその人を進化させる。飽きる前に恐ろしいほどのめり込み、本気でハマって極めスキルアップする。
燃え尽きる。
そして、次のフィールドを探し、自分の中で波乗り。
それの繰り返しかな。
またひとつ違う角度から自分を知れたような気がした。
始める前の時点でどうしても判断出来ないなら、とりあえず始めてみてフィーリングを確かめた後で、
もう一度、自分にどう?って聞けばいいと思う。
だって、やったことがないことはやるまで分からないんだし。
目の前の相手がやる気をいつまでも保証してくれる訳でもないのだ。
回答する人がいつもそう答える人なら、いいのにな。
何年お付き合いしてるの?
誰よりも自分の性格も弱さも知ってるんじゃないの?
本気度を測る唯一のものさしは自分の心にしかないはずなんだ。
放っておいても心が違和感を覚えて走り出さずにはいられなくなるとき、
そういう時は、大抵周りの意見なんて入ってこなくなる。
前例的にも世間的にも正しかろうが、自分にはどうだっていい事なんだ。
それがいっ時の趣味や流行りに乗せられてやっている人と
本気で自分の人生に向き合っている人の違いかな。
筋書き通りに進む事なんて稀、
よっぽど運がいいか、
通い慣れた道でない限り
必ず軌道修正することになる。
それでいい。
つまづき、気づきを覚えるたびに
歯の矯正のようにちょっと痛くて
慣れない型ははじめは窮屈で仕方ないけど
徐々に慣れてアップデートしていけばいいのだ。
ゴールはどこ?
短期的なゴール、
中期的なゴール、
長期的なゴール。
最終的に、辿り着きたい場所に自分が向かって走っていればそれでいい。
夢は逃げない、逃げるのはいつも自分なんだから。